陸前高田市の救援活動で学んだこと【体験記・東日本大震災】

東日本大震災の救援活動で学んだこと

東日本大震災で救援活動をしました。

数日でしたが、防災の大切さを感じる人生経験となりました。ここで情報を共有することがあなたの防災意識をより高く導くと信じて発信します。

陸前高田市の救援活動で学んだこと【体験記・東日本大震災】

発災後、約1ヶ月経っていましたが現地では食料、飲料水、ガス、電気が行き届いていないままでした。

陸前高田市の当時写真
走行中の車窓から

この記事は、わたしの救援活動記録を掲載することで、ひとりでも多くの方に防災について深く興味を持っていただけるようにとの思いを込めて執筆したものです。

防災は、被災前にしか準備できません。ぜひご一読ください。

本記事では、わたし個人が撮影した現地画像を多く使用しています。できるだけWi-Fi環境での閲覧をおすすめします。また、陸前高田市での救援活動中のスナップ写真です。写真撮影のために現地へ向かったものではありませんので、防災を学ぶための資料としてご覧ください。

被災された方々には心からお悔やみ申し上げます。癒えることのない傷を抱えてもなお立ち上がろうとする皆さん、現地でわたしたちを暖かく迎え入れてくださった皆さんへ応援と感謝を申し上げます。

目次

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった

東日本大震災の救援活動をするため、岩手県の陸前高田市へ向かいました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
飛行機で現地入りし電車を乗り継いで向かった

発災から1ヶ月ほど後の出発だったので、それほど役に立てないかもしれないと思いながら、兵庫県の伊丹空港から飛行機に乗りました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
発災から1ヶ月以上経っていたが街は機能していなかった。

現地に降り立ったとき、テレビで見た風景がそこにありました。

確かに、テレビで見た映像そのものです。しかし、現地では異様な静けさが街全体を覆い、ただただ空虚な空間が広がっていることは、テレビでは感じられませんでした。表現し難い不安感。何からすればいいのかという困惑。

数時間前までは当たり前だった、電気もガスも水道も、被災地にはほぼなにもありませんでした。役に立たないと思ったのが、どれだけ浅はかだったかと振り返って思います。

逆に、なんの役に立てるのかという焦りにも似た感情が湧き上がってきました。

東日本大震災の現地スナップ
走っている車はほぼ公用車かボランティア
東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
がれきは、整理されたのではなく押し流されたままの状態

現地の人の姿はほとんどなく、まだ避難所での生活が安定し始めた程度の状況でした。海側や逆流した河川の堤防外には、海水で枯れてしまった立木の様子も見えました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
海水の塩分で茶色く枯れた観葉植物

道路脇の家を見ると、がれきが屋根の上に残っていました。折れた木材などがその高さまで運ばれるくらいの威力だったことがわかります。

できるなら、津波警報が発令されたときは自宅避難ではなく、予想される津波の高さ以上の建物や丘陵地へ移動すべきです。持ち物はスマホだけでいいので、走って逃げてください。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
屋根の上に残ったがれきが津波の威力を感じさせる

上の写真では電柱が立っていますが、実際は多くの電柱が倒れており、通電復旧はかなり先になるとのことでした。実際、自衛隊を除き、県外からの救援者は陸前高田市より離れた山間部の街に滞在して活動していました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
写真奥の山桜と目前のがれきとの対比が印象に残る

ご存知の通り、津波は防波堤を越えて街を襲ったあと、河口から逆流して川上へ向かいました。川上へ向かうほど川幅は狭くなるので、減衰するどころか威力を増して駆け上がるように街を襲いました。

現地で河川沿いの県道を走行すると、河下から押されたように破壊されたビニールハウスなどが直ぐそばにありました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
津波が河川に沿って逆流してきた跡
河口から逆流してきた海水に押しつぶされたビニールハウス
河口から逆流してきた海水に押しつぶされたビニールハウス
津波の破壊力
ビニールだから破壊されたのではないことは車の状態を見てもわかった

救援活動本部へ向かう途中の道路脇には手つかずのがれきが続いていました。あまりの凄惨さに、自然の驚異を感じるとともに、わたし達がなんの役に立てるのだろうという虚しさも感じました。

正直、阪神淡路大震災を経験していたので、被災地の現状は想定していました。しかし、津波の被災地は震災地とは全く別の景色。大震災時の救援活動とは違う意識が必要と感じました。

自衛隊と消防隊の活躍

そんなわたし達より先に現地へ向かい、ほぼ寝る間もない救助活動をしていたのは自衛隊。現地の人のみならず、救援活動に慣れていないわたし達にとっても、自衛隊の活躍ぶりは心の支えになっていました。

東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
自衛隊の拠点。空き地に砂利を引いて重量車が埋もれないようにしていた
東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
特殊な重機や炊飯車などもあった
東日本大震災の救援活動で陸前高田市へ向かった
どれだけの自衛隊員が尽力してくれたのだろう

自衛隊はもちろん、ほぼ同時に全国の消防関係者(主にレスキュー隊員)も現地入りして救援活動を行っていました。

現地の消防車すら被災していた
現地のポンプ車すら被災していた

発災翌日に現地入りしたというレスキュー隊の方からもお話を聞きました。隊員の方は多くを語らず「ただひたすら、できることはやってきた」とだけおっしゃいました。

津波の引いた跡
海底のヘドロが残った部分と残らなかった部分では地面の色が違った
テレビで何度も見た風景を現地で目の当たりにする
テレビで何度も見た風景を現地で目の当たりにする
破壊された鉄橋
繰り返し報道された鉄橋

テレビの映像では、飽きるくらいに繰り返し映し出された映像。大変だ大変だと繰り返すアナウンサー。どのチャンネルも崩れた鉄橋を映し出し、こんなに大変なことになっていると声高に叫んでいました。

現地になんのゆかりもないわたしにとっては、外国のことのようにすら感じていました。とにかく行けば、何かしらの役に立てるだろう。そんな意識でしかなかったと思います。

津波でねじ切れた鉄橋
ねじれて切れている鉄橋

現地で見る実物は、ただ沈黙し、相当な重量をかろうじて支えてうなだれている鉄橋が、人類の発明など自然の足元にも及ばない小さな力であることを顕示していました。

大仏を見上げるような想いが近いかもしれません。ただ重く、静かに、何かを訴えている感覚。

情報を共有したいのに、本当の恐ろしさを伝えきれないもどかしさを感じます。あってはならない被害、しかし、抗うことのできない強大な自然の力。

人間でしかない私達ができることは、自然の驚異から身を守れるように自然の力が届かないところまで距離を取ることしかないと痛感します。

下の写真を見てください。画面の奥に、左上に向かう白いガードレールがあります。
つまり、すこし高台になっている場所の写真です。

津波の被害
高台が見える写真

ガードレールの途中から、海底の泥もなければ、緑の木々も元気に立っています。山桜も見えるほど爽やかな早春の風景です。しかし、手前はヘドロと破壊された瓦礫の山です。

現地ではこのように、ほんの少し高いだけでほぼ津波に被災していない部分が点在していました。たとえすぐそこに津波が見えたとしても、諦めずに高い方へ走ってください。

丘から海を望む
道路の先は津波の被害が顕著だが、わたしの立っている場所は畑も被災していない
被災していないエリアでは自家用車の通行も問題ないほどの違いがあった
被災していないエリアでは自家用車の通行も問題ないほどの違いがあった

現地でも、高台に住んでいる人たちが海岸や河川沿いで被災した人たちの救援ボランティアをしていらっしゃいました。他人を助けられるほど、ほぼ被災していない人もいたのです。

陸前高田市での被害状況
画面右側は川の堤防方面。左側は道路を挟んでいるだけで壊滅的な被害にまで至っていない
川側には漁港にあったはずの船まで押し運ばれていた
川側には漁港にあったはずの船まで押し運ばれていた

上の写真のように、道路の左右で被害状況が全く異なる様子がみられました。たまたま、川沿いに住んでいたかどうかの違いで、被害が少なくなったことが明確でした。

東日本大震災の公式災害記録

2011年3月11日の15時まえに発生した東日本大震災。改めて公式の災害記録を確認してみましょう。

JRの駅も一部を残して破壊された

三陸沖の約130km先、震源の深さ24km地点で発生したマグニチュード9.0の大地震が発生。1900年以降、世界の観測史上4番めの規模とされています。

最大震度は7とされており、太平洋沿岸部を中心に広範囲で強い揺れが発生しました。遠く離れた千葉県のディズニーランドですら液状化現象が見られるなど、各地に大きな爪痕を残しました。

この地震によって発生した津波が、三陸を大きく襲った。これが東日本大震災の特徴と言えます。

詳細は、内閣府「防災情報のページ・特集東日本大震災」を参照ください。

東日本大震災の主な被害報告

首相官邸が発災3ヶ月後の6月に発表した内容は以下の通りでした。もちろん速報値でしかなく、このあとも数値は変動し続けました、

被害内容被害の大きさ
死者15,467人
行方不明者7,482人
負傷者5,388人
避難者129,594人
全壊103,981戸
半壊96,621戸
一部損壊371,258戸
政府発表の資料より一部を抜粋

その後、上記の数値は大きくなる一方で、未だに全容はつかめていません。あまりにも被害が大きく、防災のためのシステムが今ほど構築されていなかったためです。

現在は東日本大震災での情報伝達能力の不足や備蓄物資の不足、インフラの防災的建設計画不足を教訓に、さまざまな工夫がされています。

そして、さまざまな慰霊碑、復興記念碑とともに、後世へ伝える努力が続けられています。

報道されない被災地での人災

報道されない被害もあります。人災です。

避難している家屋への侵入窃盗、性犯罪、DV(家庭内暴力)、詐欺…さまざまな人災が現実には発生していると聞きました。生き残った幸運な人ですら、人間同士で傷つけ合う行為があったというのです。

阪神淡路大震災のときも耳にはしましたが、極限状態の中でこそ、人であり続けてほしいと祈るほかありません。知性のある動物として地球で暮らす人間。欲望に負けず、知的な振る舞いを、他者へのいたわりを持っていてほしいと願います。

一方、避難者も通常時とは違うことを常に念頭に置き絶対にひとりで行動しない、信用できる仲間を早めに見つけるといった防御策を身につけておいてください。

救援活動から学んだ教訓

救援活動は、組織的に統制が取れた状態で行うことが最低条件です。

統制の取れた中で、十分な情報共有を行い、どこに誰が何を救援するのかを明確にしておく必要があります。

決して救援活動のために、被災した現地の人を困惑させたり心理的負担になるような押し付け救援活動になってはなりません。ボランティア活動をする方は、足りないところの仕事ならたとえどんなに辛い内容でも最後まで責任を持ってやりきる覚悟が必要です。

また、救援活動者自身も精神疾患になることが知られています。屈強な自衛官やレスキュー隊員ですら、精神的ケアが必要となり、復職もままならないひとが数多くいます。

ボランティアとして参加する方は、自分を過信せず、心身ともに耐え難くなったら勇気を持って引き継いで引き上げてください。無理は禁物です。

ただ、現地の人に「遠いところからほんとにありがとう」と言われる喜びが何にも代えがたい報酬だと思う気持ちには心から賛同します。

東日本大震災の救援活動を終えて

数日だけの救援活動のあと、つぎのチームへ引き継ぎ、わたしは関西へ戻りました。

東日本大震災の救援活動を終えて
伊丹空港へついたのは夕方に。空港は電気の明かりがまばゆいほどだった。

そこには電気も、ガスも、水道も当たり前にあり、瓦礫が何一つない街です。スーパーやコンビニに空っぽの棚はなく、どのガソリンスタンドでも給油ができました。

好きな店で、好きなランチを注文し、休憩時間が終われば職場の椅子に座る。

これが当たり前であることがどれだけ異常に感じたことか。

その夜、数日ぶりに余震のない夜を過ごし、眠りにつきました。翌朝もテレビは東日本大震災のチャリティーコンサートに訪れる人気タレントを報道しています。

関西に戻ったいま、もうできることはない。

そんな虚無感を覚えながらも、現地の凄惨さを周囲に話し、防災の必要性を語ることが何かの役に立つのではないかと考える日々が始まりました。

最後までご覧いただきありがとうございます。

あなたが家族を守るため、防災に備えようと思い立ったならば、この記事も意味のあるものになれたのではないかと嬉しく思います。

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